イスラム暦のムハッラム月10日。
その日はアーシュラー(またはアーシューラー)と呼ばれ、シーア派イスラム教徒にとり、とても大切な日である。
今年2019年の場合は、つい先日、西暦9月10日がその日であった。
このアーシュラーについて、全4回に渡って紹介したい。
今日は「アーシュラーって何ぞや??」基礎知識。

エクストリーム・イスラム宗教学!
アーシュラー編!!
(真似してみたい)
辞書的定義(※スルー推奨)
まずはマジメに辞書的定義を確認してみよう。
アラビア語で10を意味する語から派生し、ヒジュラ暦ムハッラム月10日のことを指す。
(中略)
ヒジュラ暦61年 (西暦680年)のこの日、預言者の孫であり、12イマーム派でいう第3代イマーム・フサインの一行がカルバラーで殺害されたことから、シーア派信徒はイマームの殉教を哀悼する行事を行う。
(中略)
シーア派の伝播とともに、世界各地で成立したシーア派コミュニティは、それぞれに再生儀礼や闘争儀礼を伴うアーシュラーの行事を発展させた。
なおアーシュラーの行事の基本的なパターンでは、詩や語りでカルバラーの悲劇を再現し、体を叩いたり、ときには自らを傷つけ、涙を流し、泣き声をあげて追悼の意を表現する。
(岩波書店『イスラーム辞典』)
だぁぁあ堅苦しい!!

というわけで
私から噛み砕いて説明するよ。。
※イスラーム辞典は他の追随を許さない良書だが、詳しすぎるため、それなりにイスラムを勉強した人でない限りは「辞書を読むための辞書が要る」という事態に陥ってしまう本なので、一般の人には全くもってオススメしない。
シーア派とスンナ派

まずはシーア派とスンナ派
という2つのグループについて
イスラム教を始めた人:預言者ムハンマド
という人がいた。
彼が亡くなると、イスラムの社会は、
「今後は誰がイスラム社会のリーダー(カリフ、ハリファ)になるべきか?」
という点をめぐり、2つの派閥に分かれてモメていた。
2つの派閥がコレ。
- 血統重視派。預言者ムハンマドの子孫がリーダーになるべきだ。(→シーア派)
- 実力重視派。出身部族は関係ない。実力で選ぼう。(→スンナ派)
当時、血統重視のシーア派を率いていたのが、ホセイン。
預言者ムハンマドの孫だ。
(フセイン、フサインとも発音できるが、今回はイランのアーシュラーを紹介するためイラン式の発音を採用する)
対するスンナ派を率いていたのが、血気盛んなヤズィード。
彼はウマイヤ朝というスンナ派王朝の2代目でもある。
(ウマイヤ朝を始めたムアーウイヤの息子)
この2人がライバルという状況である。
シーア派の街・クーファの蜂起
西暦680年。
シーア派の街のひとつであるクーファという街の人々が、ヤズィードたちスンナ派の王朝に対して、反乱を起こすことを決定した。
その知らせは、シーア派のリーダー・ホセインのもとに届いた。
ホセイン「もちろん私も参加する!クーファの人々よ、共に戦おう!」
しかし、ヤズィードはその動きをいち早く聞きつけ、シーア派の街クーファをさっさと制圧してしまう。
もうクーファの人々は蜂起できない。
これをクーファの人々は延々と悔やみ続けることになる。
そうとは知らず、出陣したホセイン軍。
クーファの人々に合流すべく、わずかな人員で進軍する。
しかし、クーファの人々は現れない。
それもそのはず、クーファは既に制圧されているのだから。
こうして、
シーア派リーダーホセインは、
カルバラー砂漠(現在のイラク)で、
味方との合流叶わないまま、
わずかな人数で完全に孤立。
ヤズィードが送り込んだスンナ派の軍に包囲されてしまう。
カルバラーの戦い
カルバラー砂漠にて、スンナ派軍に完全包囲されてしまったホセインたちシーア派軍。
もともとクーファ軍と合流するために駆けつけており、率いていた手勢はわずか72名。
子どもも含んだ人数である。
対する敵の軍は3,000。
そこは砂漠のド真ん中。
放っておくだけでも、人々は渇き、命を落とす環境下。
ホセイン軍は、渇き、餓え、
1人、また1人と仲間を失っていく。
ホセインの弟、アボルファズル。
ユーフラテス川へ水を汲みに行こうと、包囲網を突破する。
川までたどり着いたところで、片腕に一矢を受ける。
残った片手で水を汲もうとするが、その腕にも矢を受ける。
苦しみながらも水の袋を抱えて立ち上がろうとすると、その袋に矢を受け、水は無残にも地に溢れる。
そして最後は自身に矢を受け絶命する。
ホセインの息子、アリーアスガル。
ホセインは、まだ幼い息子の命だけは助けてもらえないかと敵将へ訴える。
灼熱の砂漠、渇きに苦しむ我が子を抱き上げ「せめてこの子に水を」と叫んだ。
すると、そう指し示された幼子に向けて矢が放たれ、アリーアスガルは父ホセインの腕の中で絶命する。
こうして、ひとり、またひとり。
最後、ホセイン自身も、命を落とした。
ホセインの首は切り落とされ、ヤズィードたちの本拠地・ダマスカスへと送られた。
これが預言者ムハンマドの孫・ホセインの最期である。
ホセインたちシーア派軍は壊滅。
ヤズィードたちスンナ派軍の圧倒的勝利に終わる。
72 対 3,000
もはや戦いですらなく、虐殺とも言える惨劇であった。
あまりの残虐性ゆえに、スンナ派の内部ですら非難の声が上がった。
これをカルバラーの悲劇と呼ぶ。
そして、この事件の追悼行事こそが、現代まで続く、アーシュラーなのである。
余談として、現在シーア派の地域においては「ホセイン」「フセイン」という名前の男性は多い。
他にも、上記の登場人物である「アリー」や「アボルファズル」もシーア派地域の男性の名前だ。
一方で、「ヤズィード」という名前は、シーア派地域では絶対に見受けられない。
シーア派に対して残虐の限りを尽くした悪の権化みたいな人物なのだから、当然だ。
しかし、サウジアラビア等のスンナ派地域で「ヤズィード」は一般的な名前だ。
初めてリアルにヤズィード君(サウジアラビア人)と知り合ってしまったとき、私はギョッとしてしまったが、スンナ派の地域においては、まぁ「昔の強い武将の名前」くらいの感覚なのかもしれない。
ホセイン追悼行事・アーシューラー

カルバラーで、スンナ派軍に殺害されてしまった、ムハンマドの孫・ホセイン。
この悲しい事件の追悼行事がアーシューラーです。
さて話を現代に戻そう。
シーア派の人々は、この悲しい事件を忘れないために、現在も毎年ムハッラム月10日は休日とし、追悼行事を開催する。
それをアーシュラーと呼ぶ。
アーシュラーは、祭りと呼ぶには不適切な、悲しみ、苦しみ、悔しさが発露する、哀悼の行事。
実際に、アーシュラーではどのようなことをするのか見ていこう。
街が喪中モードになる
学校や会社は休みだ。
街全体が、喪に服すしつらえになる。
ホセインの死を悼む飾り物や、追悼行事関連グッズが販売される。
普段はキラキラ綺麗なモスクにも、黒い小さな旗が大量にはためく。
カルバラーの悲劇を演劇にする
ホセインの殉教劇「タアズィーエ」。
これはカルバラーの悲劇を演劇にしたもので、街の広場や、宗教施設、タアズィーエ用の演劇場などで上演される。

カルバラーの悲劇を詩(散文)で語る
カルバラーの悲劇についての詩(散文)を、集会所や個人宅に集まり、語り聞かせる会。
語り部は女性が多い。
その散文は「ロウゼ」と呼ばれ、語り聞かせる会は「ロウゼ・ハーニー」と呼ばれる。
胸を叩いて行進する
黒い喪服姿の男たちが、太鼓に合わせて自身の胸をトントンと叩きながら歩く、追悼の行進。
ひと叩き、ひと叩き、ホセインの受けた苦しみを自身の体に打ち付けるように。
これは「スィーネ・ザニー」と呼ばれる。
(スィーネ:胸)(ザン:叩く)
まさかYAMAHAさんも自社の太鼓がこのような行事のリズム取りに使われるとは思っていなかっただろう。

流血するまで鎖で体を叩く
アーシューラーといえば、血みどろになった参列者の画像を見たことがある人もいるかもしれない。
鎖の束を手に持って、自分の背中にジャリン、ジャリンと打ち付ける。
やがてその鎖は背中の皮膚を傷つけ血を流すも、その手は止まらず、むしろ激しく打ち続ける。
惨殺されたホセインの苦しみを理解するために。
むざむざ殺させてしまった悔しさを、自分の体に刻み付けるために。

宗教施設で追悼集会を開催する
ホセイニーイェと呼ばれる、ホセインのための宗教施設で、集会を開催。
朗唱、胸叩き、周回、やがて建物内の明かりが落とされ、慟哭の熱気は最高潮に達した。

棺桶のおみこしを担ぐ
行事の一環で、日本でいう山車(だし)やおみこしのようなものが担がれる。
これは、殺されてしまったホセインの棺をイメージしている。
これを担いで会場内を練り歩く。

ごはんを振る舞う
アーシューラーの期間中は、食事やお茶などが街のあちこちで振舞われる。
私のような平べったい顔した異国人にも、分け隔てなく配られる。
ときには、ごはんのために屠られる羊の鮮血と出くわすことも・・・

【参考図書】
シーア派の基礎知識、歴史、変遷を体系的に知るには、この本が「1冊目」「理解の軸」として最適。
シーア派の中でも、ホセインの殉教に関することや、その系譜(十二イマーム派)については、以下の本が詳しく、かつ易しい。
一般書籍の価格帯でありながら、シーア派について深堀りしている貴重な一冊。
高額で分厚い専門書に手を出す前に、ワンステップ挟むのにオススメ。
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